養源院(ようげんいん)は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室であった淀殿が父・浅井長政を供養するため創建した寺院である。
その後、元和2年(1616年)に大阪の陣に敗れた淀殿は豊臣秀頼とともに自害し、2代将軍徳川秀忠正室の崇源院(江、淀殿の妹)によって養源院で菩提が弔われた。
元和5年(1619年)、養源院は火災により焼失してしまったが、元和7年(1621年)に崇源院が伏見城の遺構を移して再建された。
そして、養源院の本堂の天井に残る「血天井」は有名で、伏見城落城の際に自刃した武将たちの血が浸みた板が天井に使用されている。 自刃した遺骸は関ヶ原の戦いが終わる約2ヶ月もの間、伏見城に放置され、おびただしい血痕や脂によって顔や鎧の跡が染みつき、当時の惨劇が生々しく残っている。
これは武将たち魂を成仏させるため、あえて養源院の天井に使用したとされる。